文化のまちづくり運動 5

中之島の歴史的環境を守る運動は、創意あるキャペーンによって、不特定の大多数の人たちにアピールする工夫が求められ、


クラシック・カーを連ねてのパレード、1000人の若者が自転車にのっての銀輪パレード、川水の浄化を求める「魚つりデモ」、市庁舎にみんなでバケツとタワシ持参で押しかけた「清浄デモ」、日銀大阪支店では聖徳太子に扮した「扮装デモ」など工夫をこらし、ジャーナリストの支援にも依拠しました。


同時に文化運動としての側面では、ポスターづくり、歌集、絵ハガキの発行、ポケットカレンダー制作などに取り組みました。

文化のまちづくり運動 4

かつて忘れかけていた中之島に市民の多彩な都市生活が呼びもどされ、新しい創造を「音楽祭」、


そして定期的な「ランチタイム・コンサート」や「写真撮影会」、「スケッチ大会」など中之島を舞台とするイベントは年間数十日に達しています。


「中之島まつり」という市民の手によるひとつのおまつりが、今まで見落し、


忘れかけていた都心の水辺環境のもつ意味を見直し、これをもっと現代都市の中に活用しようという動きに広がっていったものといえます。

文化のまちづくり運動 3

市民運動のなかから生まれた「中之島まつり」は、どんな波紋を投げかけたのでしょうか。


この"まつり〃は何よりも市民自身が中之島を使うことによって、どんなに素晴らしい都市空間になるかを、身をもって実証した。


水辺の公園の階段は人形劇の観覧席になるし、橋はステージになりました。


水上に浮かべた船は寄席にもなり、ジャズコンサート会場にもなりました。


「中之島まつり」は、すでに15年目を迎えてその規模も第一回の10倍以上に成長しました。

文化のまちづくり運動 2

子供の日の1日、中之島は3万人の人で埋めつくされ、公園中は笑いと愛でつつまれた。


クルマをシャットアウトした広い道路では、子どもたちが竹馬や人力車に興じ、広い芝生のまん中ではフォークソングがはじまった。


そのまわりには、デザイナーや美術家、陶芸家などが思い思いに自分の作品を並べ、若い恋人たちや家族つれがそれを冷やかしたり、ときには値切って買い上げたりした。


古本市には、1000冊以上もの蔵書を提供された老学者があり、赤レンガの公会堂の中では、大阪をテーマにした演劇が観衆を集め、川面を見ればアベックボート合戦がたけなわでした。

アメリカンスタイル

昭和20年代前半の日本人にとって、アメリカンスタイルの電化生活は、まさに「憧れの的」でした。


当時の日本の一般庶民は、ここに、豊かですすんだアメリカ文明を、まざまざと見る思いがしたに相違ありません。


この時期の日本は、つまるところ、『アメリカ便り』にみられる豊かですすんだアメリカ式生活様式を自らのものにするため、ただひたすらにつっ走ってきたと思いました。


事実、「神武景気」と呼ばれた昭和30年から32年にかけては、電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機(後にテレビ受像機)が、「三種の神器」としてもてはやされました。


この時期になると、整体 学校も少しずつ増え始めています。

文化のまちづくり運動 1

中之島の景観を守る市民運動は一定の成果をあげ収束に向かうが、そのなかから生まれた市民の手づくりフェスティバル「中之島まつり」は今も独自の発展をみせています。


そのはじまりからの軌跡を追ってみよう。


「第一回中之島まつり」の準備には、多くの若者が率先して作業に取り組み、その数は約200グループ・1000人に達した。


200万円を超える費用はすべて小口の寄付と当日のバザールの売り上げ等でまかなわれ、PR効果を高めた。


「もう一度見つめよう、もう一度来てみよう、もう一度みんなと話してみよう、なにわっ子のふるさと中之島。


中之島を市民の手にとりもどそう、中之島にほんとうの広場を創り出してみよう」と呼びかけたこのまつりは、1973年5月5日、晴れわたった朝にはじまったものでした。

はっきりした人 その5

彼女はフランス的というよりは、むしろアングロサクソン的であるような気がしました。


露出計も持ってこない、試し撮りのボラも切らない、請求書はしょっちゅう送り忘れる・・・というような、何というか非常に「感覚派」的なカメラマンが多いフランスで、彼女のように緻密で整理整頓されたカメラマンというのは、確かに希有な存在だった。


とにかく彼女には自分の流儀というものがしっかりと確立していて、すべてその流儀にしたがって執り行われなければならない、そういう少し偏屈なところもあった。


それこそ10以上も年下の私が口出しする余地はどこにも見当たらないのだった。

はっきりした人 その4

仕事柄、たくさんのカメラマンの人たちを知っているが彼女のようなタイプは初めてでした。


対象を選ばない、仕事に軽重をつけない、という点だけではありません。


そのアプローチはとてもビジネスライクで合理的っでした。


「午前はこの仕事、ランチはクライアントとの打ち合わせを兼ねて馴染みのビストロCで、そして午後はこの仕事を夜の7時まで」


「これこれの仕事には、」れだけの時間と労力がかかるからギャラはこれこれで」


「このギャラとこのぺージ数だと○○時間以上は割けないから、途中でも切り上げる」


・・・こういう仕事の仕方をするカメラマンにそれまで会ったことのなかった私は、正直いってまごつき、時にいらついた。


整然と片づいたスタジオ。


大きなスケジュール帳。


クライアント関係の書類や保存用のフィルムが置かれたオフィス。


すべてが段取りよく、システマティックでした。

はっきりした人 その3

まだ彼女のことをよく知らなかった頃、たいして意識することもなく「専門の分野は何?」と尋ねたことがありました。


私の顔をギョロリとにらみ彼女は答えた。


「私は専門家じゃないの。ジェネラリスト。写真を撮ることが私の仕事。対象は何だって構わない」


けんもほろろのその答えに呆気にとられ、まるで「馬鹿な質問をしてしまった」ことを恥じる子供のような心境に陥った私。


実際、彼女は何でも撮る人でした。


インタビュー写真、静物、イソテリア、風景・・・。


カラー写真、モノクロ写真、構成写真、切り抜き写真、自然光の写真、凝ったライティングの写真・・・。


ところで素っ気ない返答で私を「窮地に追い込んだ」ことに気づいたのかどうか、間もなくつけ足すように彼女はいった。


「もちろん、強いていえばスタジオ撮影が多いっていうことくらいはいえるわよ。


コマーシャルやカタログの仕事の依頼は、まず9割以上がスタジオ。


でも私は仕事がくればいくらでもスタジオの外に出ていくわ。


偉くなったからこんな仕事は受けられませんっていうようなカメラマンが多いけど、私はそういうふうにこちらは重要な仕事、こちらは軽い仕事、というような区別をしないタイプなのよ」

はっきりした人 その2

女手一で、といったら今どき怒られるだろうが、彼女はまた、優れて生活力のある女性でした。


「どうしてカメラマンになったの」と、ある日、彼女の車の助手席に座りながら尋ねました。


「さあ、どうしてかしらね。手を動かして何かをするっていうことが好きだったからかな。私は肉体労働者の道を選んだのよ」


その「手」を動かし続けたおかげで、彼女はバスティーユ広場の近くに立派な写真スタジオを設けました。


アシスタントも雇いました。


高額な機材も揃えました。


サンジェルマンに小さなアパートも購入しました。


13歳で既に「カメラマンになる」と決意し、17歳で仕事を始めました。


「他にできることもなかったしね」と、軽くいってのけるマリーだが、そういう「たたき上げ」のキャリアが彼女の支えです。